2009年08月24日
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下高井戸駅積み替えホーム仮説・貨物輸送と渡り線の位置とホーム移動の関係

Written By: 川俣 晶連絡先

 こんばんわ。流浪の地元駅「流浪の下高井戸駅」倶楽部の時間です。

 単なる思いつきですが、いくつかの話題が複雑に絡み合っているので以下にまとめのメモを書きます。

 思いつきのメモなので信用しないように。

前提 §

 鉄道ピクトリアル臨時増刊July 2003(京王特集)に掲載された「京王の貨車のあゆみ」の以下の図を前提に考えます。

1937年下高井戸駅

対象とする問題 §

  • 京王の渡り線が日大通り西側に存在するのはなぜか (この位置にあると駅北側に存在する引き込み線の使い勝手が悪い)
  • この引き込み線は何のために存在するのか
  • なぜ京王(下り)と玉電(北側)はホームを共有する形になっているのか
  • 渡り線の位置関係から使いにくそうな玉電南側ホームの存在意義は何か
  • 引き込み線分岐点北方にあったらしい砂利置き場の存在意義 (玉電からは遠すぎる)
  • そもそも、なぜホームは移動しなければならなかったのか

下高井戸駅積み替えホーム仮説 §

 この仮説を「下高井戸駅積み替えホーム仮説」と呼ぶことにします。

 まず最初に、下高井戸駅での京王、玉電間の貨物の積み替えが行われたと仮定します。その場合、以下の選択肢はあり得ません。

  • 直通列車ないし貨車が乗り入れ
  • クレーン等の積み替えのための大規模専用施設 (砂利のホッパー等の施設も、もちろん無い)

 とすれば、ひたすら人力で積み替えるしかない、と言えます。

 そのように考えたとき、積み替えの労力を最小化するには以下の条件を満たす必要があります。

  • 両者の線路を平行して接近させる
  • しかし、作業スペースが必要なので、完全に密着させてはいけない
  • 積み替えをやりやすくするために、多少足場をかさ上げしておくと扱いやすい (かもしれない)

 とすれば、京王/玉電共有ホームは、この条件を満たします。(ただし、今時のホームほど高いわけではない)

貨物列車運転の想定パターン §

 下高井戸と都心方向の間を往復する貨物列車があるとします。この貨物列車は、下り線を都心方向から走行して下高井戸駅に到着します。到着するのは、京王/玉電共有ホームです。時間帯はおそらく深夜でしょう。玉電の貨物列車も入線しています。ここで時間を掛けて人力で積み替えが行われます。玉電側からの荷物を受け取った京王の貨物列車はそのまま西側に進みます。そして、進行方向を変えて渡り線を通って都心方向に走り去ります。

渡り線の位置の問題 §

 このような運用を想定すると、渡り線の配置はけして悪くないと言えます。(下高井戸どまりの電車が折り返し上りホームに入ると考えるなら最善の配置ですが、ここでは横におきます)

 しかし、ホーム東側に渡り線があれば、即座に上り線に入って都心方向に戻れることになります。ですが、これはあまり良い選択ではありません。というのは、ここはカーブに掛かってしまうからです。回避できるならカーブにポイントを作るのは避けたいところでしょう。

 逆に、日大通りに西側に注目した場合、渡り線はここにしか作れません。もっと西側に進むと登り勾配になってしまうからです。回避できるなら勾配にポイントを作るのは避けたいところでしょう。

 かといって位置関係を逆にはできません。日大通り西側は、渡り線を作れるスペースはあっても駅を丸ごと置けるスペースはありません。

 そのように考えると、下高井戸のホームと渡り線の配置は勾配とカーブによって必然的に「この位置しかない」場所に制約されていることが分かります。

引き込み線の存在意義 §

 この仮説を選択した場合、玉電南側ホームと京王の引き込み線については、貨物の積み替えとは直接的に関係がないことになります。

 ただし、出番が来るまで他の列車の運行の邪魔にならないように置いておく場所として使用されたという可能性は考えられます。

 また、砂利置き場も積み替えとはあまり直接的な関係がないことになります。下高井戸周辺で消費する砂利の一時的な置き場所という可能性もあり得ます。

 ちなみに、下高井戸駅近くに青果市場があり、その関係で「玉電との積み替え」とは別に、貨物輸送に関するニーズが存在したという仮説も立てているところです。下高井戸周辺は、この時代には都心への野菜の供給地だったのです。関東大震災以後いかに宅地化が進んだとは言っても、それは鉄道や大きな道路に沿った部分だけであり、大正末期から昭和初期の時代、大多数の土地は未だに農地です。

ホーム移動の必然性 §

 京王線が最初に複線化された時のホームの位置関係は明確ではありませんが、当初は日大通り西側に少なくとも1つあったことは間違いないようです。しかし、すべてのホームは日大通り東側に移動しています。

 これは、既に説明した通り、渡り線の設置を前提とすると必然的な選択であることが分かります。これより西は勾配になるため、ホームと渡り線の両方を置く場所的ゆとりが日大通り西側には無いのです。

 ただし、この場合は玉電との貨物の積み替えではなく、下高井戸どまりの電車を折り返し運転するための渡り線という位置づけが強いように思います。

感想 §

 ある程度確定的な結論は、公文書館のような施設に行って調査しないと無理のようですが、現状その余裕がありません。うーむ。

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